アメリカでの生活とアートについて

2回目のシンシナティ美術館訪問

久しぶりにシンシナティ美術館に訪問しました。木曜日は入場チケット代が無料で、夜の8時まで開いています。

この丘の上に美術館が立っているのですが、手前に見える彫刻はチャカイア・ブッカー(Chakaia Booker)という、アメリカでは知られた彫刻家であり、マイカにも指導に来ていました。

今回の展示では、とりわけアフリカ系アメリカ人の作品に焦点が当てられ、時代ごとに展示してありました。

この作品は19世紀ごろの作家で、白人と黒人のハーフでした。オバマ元大統領の時もそうだったのですが、アメリカではWASPの子孫たちにとってヨーロッパ系の血を持っていることがとても高いステータスを持ちます。調べてみると、この作家は他の作家の風景画のコピーをしていたそうです。今でいうと複写屋さんです。

それが、20世紀に入り公民権運動の影響もあり徐々に黒人としての個性を強く主張し出すようになっていきます。こういった系譜があることを知った上で美術館を訪問されると良いです。

日本では、常に外からアートを輸入してきた歴史があり、同調圧も強いため欧米の現代アートはなかなか理解しがたいところだと思います。

日本では「芸術家は黒子に徹さなければならない、しかし欧米では神になれる。」という言葉を聞いたことがあるのですが、まさにその通りです。

こちらはサム・ギリアム (Sam Gilliam)、アメリカではとても有名な作家です。説明を読むとジャクソン・ポロックやヘレン・フランケンサーラーに影響されていたそうで、アメリカのモダニズムの流れを組む作品です。

右の作品のタイトルは「アーク」、ノアの箱舟という意味や避難所という意味があります。我々黒人もノアの箱舟で生き残ったハムの子孫(神に選ばれた子孫)だという意味が込められていたのかもしれません。

こちらは1980年代生まれの作家です。説明文では祖国であるアフリカで集めたガラクタで仮面を作っており、エル・アナツィの作品からもインスパイアを得ているそうです。映像とサウンドの効果がパンクのような表現でとても現代的でした。

こうしてみると徐々に個性に焦点が当てられ、表現が複雑化していることが明白です。

特別展(木曜無料)のコーナーでは、フランク・ドゥフェネク(Frank Duveneck )の作品が陳列されており19世紀末から20世紀にかけてアメリカで活躍していた作家だそうです。この展示で初めて知った作家なのですが、18世紀のバロック時代を想起させる古典的な作品です。

説明書にも書かれていたのですが、コピーと言ってもいいくらい18世紀の巨匠であるレンブラントやフランク・ハンスからの影響が強く、新天地でヨーロッパを乗り越えようとしたのでしょう。昔、メトロポリタン美術館でも彼の彫刻を見た記憶があります。

日本の美大で学んだ人なら、左のフランク・ドゥフェネクの作品を見てすぐ右側にあるラファエル・コランの作品、1886年のフロレアル(花月)とポーズが同じであることに気がつくはずです。制作年も同じなので、フランク・ドゥフェネクがヨーロッパを旅行した時に目に触れた作品なのかもしれません。

実際、イタリアのベネチアの運河でスケッチして制作した版画も多く展示されていました。

新古典主義のドミニク・アングルばりの表現です。

こちらは18世紀オランダの巨匠であるフェルメールと同世代の人で、非常に繊細に描かれています。作風がほとんど同じですが、フェルメールの方が静止した光そのものの現象に迫っていたように見えます。

17世紀のオランダでは職業画家が多かったのですが、今で言えばムラーノ島でガラス細工が所狭しと多く販売されているような雰囲気だったのではと思います。

次は常設されている展示で、私がいつも興味を惹かれている作品のみ載せていきます。

ウィレム・クラース・ヘダではありません。

オランダの自然主義に根ざした作品はいつ見ても親和性があります。このタイプの画家では、ウィレム・クラース・ヘダの作品が群を抜いており、オランダの湿気を含む柔らかい光で表現された美しい表現はため息が出るほどです。

この静物画に触発された現代ガラス作家の作品が同じ展示会場に置かれていました。

この作品はガラスで丹念に制作されており、あたかも教会を光で満たしたゴシックのようです。さらに色彩が省かれることにより逆説的に存在感を感じさせており、また光で満ちた小さな空間を俯瞰できる表現がユニークです。

もし小さな蜘蛛がこの会場にいたら、これらの写実的な絵画はただの壁であり、ガラス細工も同様に単なる物体です。結局、作品は私たちが五感を通して脳の中で世界を認識しているに過ぎないことを明らかにしています。

次はモダニズムのコーナーです。

ジェーン・ハモンド (Jane Hammond)の作品です。なぜこの数字が表現されているのかずっと気になっていました。ネットで検索してみてると、ジョーンケージの影響があったようでチャンスオペレーションへのリスペクトなのかもしれません。他の作品も、画面全体がオーバーオールとなっていてどれも独特です。

この馬の彫刻で興味深いところは、廃材で組み立てていることであり、日本の戦後を思わせるところです。南部や西部開拓に繋がる馬を表現してきたデボラ・バターフィールド (Deborah Butterfield)の作品は、アメリカの一流美術館でよく見かけます。

次は文字を使って表現した作家です。左はジェニー・ホルツァー (Jenny Holzer)であり、ミニマリズムの系譜として「政治、暴力と死」をテーマに、社会を喚起させるために文字を使っています。

このベンチには”YOU CAN WATCH PEOPLE ALIGN THEMSELVES WHEN TROUBLE IS IN THE AIR. SOME PREFER TO BE CLOSE TO THOSE AT THE TOP AND OTHERS WANT TO BE CLOSE TO THOSE AT THE BOTTOM. IT’S A QUESTION OF WHO FRIGHTENS THEM MORE AND WHOM THEY WANT TO BE LIKE. ”という文字が彫られています。

また、右の平面作品はグレン・リゴン (Glenn Ligon)で、以前私のブログでも触れたことがあります。このcampusにある文字を読むと「アランポー」や「見えない男」という単語が見えるのですが、霞んでてよく読めないので調べてみたらラルフ・エリソン (Ralph Ellison)という作家の『見えない人間』という小説からの引用でした。

“I am an invisible man. No, I am not a spook like those who haunted Edgar Allan Poe; nor am I one of your Hollywood-movie ectoplasms. I am a man of substance, of flesh and bone, fiber and liquids — and I might even be said to possess a mind. I am invisible, understand, simply because people refuse to see me. Like the bodiless heads you see sometimes in circus sideshows, it is as though I have been surrounded by mirrors of hard, distorting glass. When they approach me they see only my surroundings, themselves, or figments of their imagination — indeed, everything and anything except me.”とキャンバスに書かれています。

アマゾンの本で調べて見たら、見えない存在となった黒人青年の遍歴だそうです。

「僕は見えない人間である。僕の姿が見えないのは、単に人が僕を見ないだけのことなのだ」町の有力者の集まりでバトルロイヤルに参加させられ、演説を行なった代償に、黒人大学の奨学金を貰った〈僕〉は、北部出身の白人理事を旧奴隷地区へ案内するという失敗を犯して、大学を追い出されてしまう。・・・警官による黒人射殺事件を契機にBLM運動が世界的な広がりを見せているが、現在の社会において「見えない」存在と化しているのはアメリカ黒人だけではない。いま読まれるべき小説 “ −アマゾンより−

次は河原温です。既にこの方を紹介している日本語のサイトが多いので説明は省きます。

マイカの授業の一貫で訪問したグレンストーン美術館でも展示されていました。何よりも興味深いのは、一見徹底的としたミニマリズムのように見えつつも、逆にローカル性を強く獲得している点です。

よく見るとマスキングで切り込んだ跡、塗り込んだ痕跡がわずかに残っており、キャンバスの持つ厚みやサイズによって作家の身体的な所作とこだわりを感じさせてくれるものです。このことにより、絵画やデジタルといった表現より何らかしらの意味を暗示させるための彫刻作品のようです。

この作品はコンセプトや制作過程、歴史を知らないとなぜ評価されてきたのか知ることは難しいです。私も最初は興味が湧かず、いつも美術館でスルーしていたものです。

このアーティストはアニラ・カイユム・アガ (Anila Quayyum Agha)です。光と影の効果がとてもきれいでした。この作品はコンテンポラリーというより宗教性やオリエンタルの要素が際立ち、文化的な評価を受けているはずです。

言い換えれば、彼女は伝統的なイスラム芸術であるラマダンランタンランプを、西側のインスタレーション形式に変化させることで文化を推進をしていると言えます。またアラベスクのような装飾が、長い間続いてきたイスラム社会の様式を強く感じさせています。

つまりコンテンポラリーの形式でも、ヨーロッパの伝統の系譜か、他国の文化の紹介かどうか見分ける必要があると思います。

ひさびさに歩き疲れましたが、美術館の良いところは非日常の世界に入り込んだことで日常を豊かにさせてくれるものだという実感を与えてくれています。コロナが収束しない日々、日本でこうした会話を友人と盛んに交わしていたことが懐かしく感じられます。