アメリカでの生活とアートについて

なぜ権利が必要なのか?二つの映画から

「すべてをかけて:民主主義を守る戦い」

最近、森元首相の女性蔑視の発言が世界的に批判を集めることになりました。一方、アメリカでもジェンダーギャップの課題が残されたままです。米国の大学院で聞いた話ですが、アメリカは成果主義のため職場での露骨な差別はありませんが、それでも男性と話す時には自然に笑顔を向けるよう教育されるそうです。アフリカ系アメリカ人の子供たちが、警察に呼び止められたらすぐ手を挙げるように指導されることと同じです。

日本に住む人たちがこの問題に対して沈黙すべきなのか、積極的に話題に取り上げて議論すべきなのか?答えはそれぞれだと思いますが、以下二つの映画から手がかりを得られるかもしれません。

一つ目はすべてをかけて:民主主義を守る戦いです。

この映画はステイシー・エイブラムスというアフリカ系アメリカ人の女性が出てきます。彼女は今年の大統領選でトランプを破るために、ジョージア州だけで80万人以上の有権者の登録を実現したそうで、バイデン大統領の勝利に大きく貢献した人です。

彼女は2018年にジョージア州知事選に立候補したのですが、州務長官だったブライアン・ケンプ(現ジョージア州知事)に5万票差で敗れた時のドキュメント映画です。なんとこのケンプは州務長官時代に、100万人以上のジョージア州民の有権者登録を無効にした人です。自分が州知事になるために駒を進めていたとしか思えないですね・・・。

ステイシー・エイブラムス

この映画では、今のアメリカでは全ての人が民主主義に参与することの権利を奪う「人種隔離政策のバージョンアップ版」が作られていると主張しています。表面上は合理的で人種的に中立に見せていても人種隔離時代に南部で生まれた人などを除外する”有権者IDの設定”(2013年には25州、トランプ時代の2020年には35州が導入!)、選挙区の区割り、選挙に頻繁に行かない人を名簿から除外、近所にある投票所の閉鎖をすることにより、気軽に投票に行けなくなっているそうです。実際、バスを利用する乗客の9割は黒人で、たとえ車なら10分で行けるような場所でもバスで30分くらいかかります。

以下のリンクにエイブラムスに関する詳しい情報があり、引用させていただきました。

https://www.harpersbazaar.com/jp/celebrity/celebrity-interview/a34914587/stacey-abrams-janelle-monae-interview-201215-lift3/

これまでに米国で激動する国の変化を肌で感じて来ましたが、この映画は非常に強いリアリティをもって描かれていると思います。プロパガンダだという意見もありますが、アメリカは依然人種差別の強い国であり、現在進行形で戦っている人たちが多くいます。

例えば、日本でいうホームセンターや東急ハンズのようなThe Home Deptという大きなDIYショップのオーナーが公然と人種差別をしていることも普通のことですので、民主主義国家の中で最も後進国だと言っても大げさなことではありません。実際、私が買い物をしていた時にも「選挙登録しましょう!」というパンフを渡されたり、至る所で一票がどれだけ国の方向を変えるかを訴えるスローガンが多く見られたからです。

この映画の中で最も印象に残った言葉があります。

「沈黙を選べば力を放棄することになります」

ビリーブ 未来への大逆転

もう一つの映画は、亡くなったばかりのギンズバーグ判事の映画です。彼女は、先ほどの有権者IDの設定に反対した米最高裁の判事です。

彼女は若い時に癌のパートナーを支え、幼い子供を育てながら男尊女卑だったハーバード大学でトップの成績を収め、史上二人目の米最高裁の女性判事に就任した方です。

ルース・ベイダー・ギンズバーグ

映画の中では女性差別がテーマとして扱われており、アメリカの文化、法治国家と民主主義の理念において100年前から権利獲得の戦いがあったと述べられています。以前私のブログでも触れたのですが、シンシナティ美術館で開催された「女性解放思想 ー境界を超える女性たちー」という展示でも、真実を探求する人たちの思いや歴史の積み重ねがあってこそ女性も男性と同じように自由に表現することができるようになったと述べられていました。

このように欧米では声高に権利を訴えないと黙殺されるか、血みどろの奪略になってします。こうした文化状況や権利に対する意識は、美術館制度や作品にも反映されており、歴史の一部として強い影響を与えていると言っても過言ではありません。実際、欧米で主流となっているコンテンポラリーアートは自然崇拝や、縁起物ではなく、人間に焦点が強く置かれています。(つまり上記で述べた権利問題と同じで、アートでもごっちゃ混ぜしてしまうとアメリカに来た時に混乱してしまいます。国際の場では”伝統文化としての評価”と”現代アートとしての評価”は別となっています)

もちろん日本でも権利のために声を上げていくことが必要です。しかし国によって歴史的な立ち位置が違い、マイノリティの定義さえも異なっているため、これまでの積み重ねや歴史を踏まえたより良い方法があるはずです。誤解のないようにですが、私は競争原理を否定しているわけでも、弱者としての権利が必要であるとも言っているわけではありません。

むしろ今までのブログや上記でも触れたように、人種や性別などによってふるい分けられることで権利が放棄されるように組み込まれ、あらゆる可能性が排除されてしまうシステムに許容できません。すなわち早咲きであれ遅咲きであれ、環境と条件が整った時点で力を発揮できるかどうかだけの話になります。どこまで最低限権利が必要なのかについては、質か量かそれぞれの国で議論しながら決めていくしかないのかもしれません。