アメリカでの生活とアートについて

マンハッタンの美術館情報(6)ニュー美術館

ニュー美術館(New museum)

ニュー美術館でもアフリカ系アメリカ人の作品が中心となって展示されていました。

美術館にいたスタッフと雑談をしたところ、現在アメリカの美術館全体が人種、性別などの政治的バリアーを取り除く運動を積極的に行なっているとのことでした。また説明書を読むと、前回のブログでも取り上げたオクウィ・エンヴェゾー (Okwui Enwezor)がキュレーションをしていました。

ラッシード・ジョンソン (Rashid Johnson) 奥のペインティングはジュリー・メレツ (Julie Mehretu)

今回、ニュー美術館で最も目立っていた作品は上のラッシード・ジョンソン (Rashid Johnson)です。

私がマイカに在学していた間に多くの生徒の作品を見てきたので判断できるのかもしれませんが、このインスタレーションはとてもアフリカ系アメリカ人らしい表現です。やはり作品には、アーティストの人生観、バックグラウンドが自然に醸し出してくるものです。

近くに寄って周りを歩くと、ジャングルジムのような空間に植物やビデオ、生活用品がびっしり詰め込まれています。実際、アメリカの黒人の生活空間を通るとまさにこのようなイメージです。

歩いていると音が聞こえてきたのでスタッフに聞いてみたところ、インディアンの音楽をビデオから流すことで独立前の白人たちが行ってきたインディアン虐殺を批判しているそうです。

マーク・ブラッドフォード (Mark Bradford)

上の作品はマーク・ブラッドフォード (Mark Bradford)のペインティングです。以前ブログでも述べたのですが、彼の背負った黒人差別の歴史、育った生々しい生活環境の表現が人間臭さとして感じられます。

この作品もですがアメリカのアートの良いところは、ダイレクトな表現はもちろんのこと、未知の存在や表現に対して積極的に理解しようとする姿勢があることです。すなわち、負の歴史を反省した上で他者の理解に努めようとする肯定的な態度が感じられます。

そもそも人間は差異を意識する生き物である以上、差別をしてしまうものです。そのため、私たちの間に必要悪として存在してきたのかもしれません。アメリカでは、こうした積極的な展示や議論をすることによって問題点を明らかにしつつ解決の方向に向かおうとしています。

近年の流れを見ていると、いずれアジア系のアーティストや、障碍を持った人たちだけで構成された展示が開催されても不思議なことではなく、その兆しは見られています。時折ブログで取り上げているキム・クリスティンもそうした時代の潮流に乗っていることが分かると思います。

エレン・ギャラガー (Ellen Gallagher)

アメリカの現代アートには、癒し、お笑い、アニメなどが中心となった表現はほとんど見られません。そういった表現より、今は欧米を中心とした政治的な要素、または地球規模で抱える問題意識にコミットすることが必要とされているようです。

上の作品もたとえアーティストがアニメーションから影響を受けていたとしても、人間中心の知と情に訴える要素が存在しています。つまり作品から見えてくる美や遊び心だけではなく、背後にあるシリアルな要素を読み解くことも現代アートの面白さの一つです。

私たちが生きていく上でなんとなくではなく、言葉にしていくことで指針を定めるのと同様に、アートという形で視覚化していくことにより世界を変えていくという意思が感じられます。

法と自由を掲げたアメリカらしいと言えばそうですが、一方で世間を意識した束縛社会では、個人単位でも国レベルでも未来図を作っていくことは難しいと思います。

例えば、美術館から少数派や弱い立場の人たちを排除したり特別枠として振り分けて展示することは、結局公的な場から多様性を失うことで社会が閉塞していくことに向かい、観客の柔軟性や想像力を奪っていきます。

このニュー美術館での展示では彼らを別枠に振り分けているのではなく、一つの政治的なコンセプトのもとに可視化されたコンテキストとして扱っています。

最後に欧米の美術館のユニークなところは、観客やアーティストからの指摘を受け止めることができる点にあると思います。確かに差別や偏見はどこの国もありますが、正面から現実を受け止めるかどうかでキュレーターのセレクションの基準やアーティストの表現にもおのずと違いが見られてきます。

私がある日本の現代美術館のキュレーターに「どうして日本にはある作品がないのか、展示の制限の規制が入っているのか」聞いてみたところ、「規制ではなく、観客が展示を嫌がってしまいます。キュレーターはその点を考える必要があります。」という返事が返ってきたことがあります。

上記でも述べたのですが、もし世間の目を意識し過ぎることがあれば多様性を失い、観客の硬直化を招いてしまうのかもしれません。その線引きと調整がとても難しいところです。

もちろん、現代アートは共感から離れた新しさと刺激を追求した作品も多くあります。ただ十字架やコーランを焼き払うようなことは、ほとんどの欧米のアーティストでさえやらないようです。公的な場で裸体になって逮捕されるアーティストや暴動を再現する人もいるのですが、歴史と文化的な要素とも深い関係性があり、時代のニーズにも合っていたのだと思います。

イギリスで見たオレグ・クリーク(Oleg Borisovich Kulik )のドキュメントです。
全裸で犬の真似をして歩き回るパフォーマンスをしており、逮捕しに来た警察と衝突している様子が映っています。

逆に感度の高い国である日本の良さもあり、共感できるアートにより非日常の世界で補完することも間違いではありません。しかしあえて哲学的で理解しがたいものに積極的に触れることで新しい発見をしつつ、日常を豊かにしていくことも大切なのではないでしょうか。