アメリカでの生活とアートについて

生と死の香り

花の香り

シンシナティもだんだん暖かくなり、木々から新芽が出てきました。辺りには様々な花が咲き始め、春の到来を感じさせます。夕方に散歩をすると、時折花壇の手入れをする人たちを見かけます。下の写真に写っている女性に出身を聞かれので、「日本から来ました。」と答えると「私の旦那が沖縄で働いてたのよ!」と返事が戻ってきました。いつかこんな美しいお庭のある家に住めたらいいなと思います。

アメリカに咲いている花はカラフルでとても美しいけれど、逆に生の背後にある死の匂いを強く感じさせられます。しかし日本では死の香りの方が前面に強く感じられるため、桜の木の下にいる時のように生と死の境界線が曖昧になったかのような錯覚をするのでしょう。またアメリカでは花の種類ごとにばっさり風景ごとに分けられているけれど、日本では境目なく連結しているように見えます。

個展の搬入も無事に済んだので少し安堵していましたが、息をつく暇もなく「5月7日に個展をやりましょう!」とV+V galleryのオーナーさんから連絡がきました。すでに完成している大型の彫刻とドローイングをとても気に入ってくれているので、あとは展示するだけです。

現代アートの香り

今では平面だけではなく、インスタレーション、立体、映像なども手がけていますが、これも欧米のコンテキストを学ぶと自然にそうなっていきます。「日本画が世界に通じる」というのは、はっきりいって美辞麗句です。(日本文化が欧米に影響を与えたという方が正しい)というのは、日本はアメリカと違った死生観があり、それぞれのコンテキストも明快に異なっているからです。どちらが良い悪いかではなく選択の問題であり、どちらの国にも美しい作品が存在しています。

言い換えれば、「世界へ」という言葉は抽象的な表現であって、個人的には無理に日本画をアクリルやミクストメディア、デジタルなどの素材に変えない方が自然に思えます。結局素材や道具が変われば、油絵やパステルなどで日本の感覚を表現した作品と変わらなくなり、日本画として発表するならば中途半端に見えます。その点において学生時代に天然岩絵具に制限し、皿と筆を用いてストイックに描いて学んだ経験は大きな財産になっています。

仮に現代アーティストが伝統的な作品から触発されたとしても、同じ批評の土俵に載せることは不可能です。私の作品も日本画と根本では繋がりつつも、それを欧米のコンテキストに組み込むという形で発表しています。(たとえばピカソなどのマーケット手法を参考にしても、それは現代のアートのコンテキストや手法ではなく個人の選択だと思っています)

現代アートは「死の表現」というより、むしろ生を謳歌しています。冷たいホワイトキューブのクールな空間の中に、生のかりそめを強く見ることができると言った方が正しいのかもしれません。いわば死の香りの中で生と死の境界線を曖昧にさせているように感じられます。

ダミアン・ハースト

この作品はダミアン・ハーストの作品なのですが、欧米の現代アートに限れば私の人生で強く衝撃を受けた作品です。彼の作品は、私から見るとホルマリン漬けの標本というより「生」の香りが漂います。ダミアンは他の作品でも牛とかも切り裂いていますが、暴力的には感じませんでした。むしろぞっとするほど美しく感じられたものです。

あえてこの表現が暴力とするならば、表層に現れているだけです。日本にも暴力的な作品が多く存在していますが、それらは内包されており、地理的・文化的な要素によって見え方や質が違うのだと思います。

そしてこの作品は、パラドックスとして今日エジプトのミイラたちが失った生の香りを眩惑的に作り出している。いわば全てを白日の下に暴き、視覚優位となった西洋文明を見事に批判した作品とも言えるでしょう。

もし日本の作家がこれから世界市場を意識するならば、コンテキストだけではなくデジタルアーカイブへの意識も強くすべきだと確信しています。しかし、現段階では現場で体感する臨場感とリアリティ、躍動感に勝るものはありません。その上、住む国や活動の場が変われば上記でも述べたように見え方も変わってきます。

それではデジタルの世界という、コロナ以降に拡大した新たな空間では今後どのような展開がなされるのでしょうか?