アメリカでの生活とアートについて

アウトサイダー・アート 

シンシナティのVisionaries + Voices galleryから展示依頼があり承諾しました。この画廊のディレクターさんはアウトサイダー・アート系のアーティストを積極的に取り扱っており、美術館とも提携しています。

アウトサイダー・アートとは、西洋の正規の美術教育を学んでいない人や障碍を持つ人たちが作り出す独特の芸術作品と定義されており、生命の輝きの凝結とも言える素晴らしい作品が数多くあります。

私はこれまでアカデミック系の作品を展示してきたので、新たな挑戦です。アメリカではキュレーターや教授たちから「聴覚障碍者はコミュニケーションの問題があると言うけれど、アートの世界では誰もが制作に苦しむよね?それに日本のアートだって我々から見るとアウトサイダーだよ。だからこそユニークなアートが作れるだろう。日本画で学んだ美意識や筆談などあなたの経験も作品の重要な一部になるはずだ。」と助言してくださいました。

実は留学に先駆けて藝大の博士展や、アートフェアに出品するはずだった日本画に私の筆談を和紙に写しとって貼り付けたことがあるのですが、これは世界的なコンテンポラリーアーティストであるジョセフさん(Joseph Grigely)の作品から着想を得ています。

ジョセフさんはアウトサイダーと西洋のアカデミックのコンテキストを踏まえており、聴覚障碍者と聴者の間にある境界線を乗り越えることに挑戦した作家です。日本の小さな画廊でも作品を見かけたことがあり、その時画商さんから「彼は聴覚障碍者なんだけど、聞こえないから認められたわけではないよ。」と声をかけられたことがあります。

その理由は、ジョセフさんがコンテキストを意識した上で観客の感情と知的な思考を促進しているからであり、感動だけを呼び込むものではないからです。言うまでもなく彼の経歴、作品のクオリティやセンスに高い評価が与えられています。

これは学部時代に自己完結してしまっていた私の日本画に新しい命を吹きこむための試みであり、哲学や歴史、対話を意識したものでした。すなわち一旦目標を達成したことに自己満足してしまうのではなく、本当に世の中のために役立てることは何か、葛藤をする中から見いだした新たな道です。

しかし私が日本画に取り入れた時には、聞こえないことの弱点を語っており、自分に甘えていると叱責されたため非常に悩みました。しかしそれは、伝統文化の保存という観点から見ると作品のメッセージ性が強すぎてしまい、諸刃の剣であったことも否定することはできません。確かに伝統維持やアカデミーは常に必要とされており、作家養成に大きな貢献をしてきたことも事実です。

同時に、聴覚障碍者としての立場が社会的弱者に見られることも間違いではありません。もちろん周りの理解や生来の能力によって、そうした状況を乗り超えることができる人もいますが、前もってあらゆる行動が制限されることで守られてしまう事情もあります。つまり社会において能力を低く見積もられることはあっても、安全な生活という道を選ぶかどうかの問題です。

私の友人にも高度な技術やデザインの資格などを持ちながらも、障碍者枠内や事務局の採用から勤めた方も多数います。当然結果を出せば、突然一般社会の土俵に割り込んできたかのような印象になりますので、どうしても風当たりが強くなることは確かです。

また、要田洋江さんが執筆した書籍によると、全員ではないにせよ、多くの障碍を持つ子供とその家族には障碍者否定観が社会によって無意識に刷り込まれてしまっているそうです。つまりアメリカの大学院の講義でも学んだように、自己を抑圧するパノプティコンである世間の存在があり、言い換えれば女性が女らしく振る舞うべきであるという無言の同調圧力と共通点があるように見えます。

その上、差別や階級制度をそれなりに問題として取り上げてきた西洋とは一線を引き、自由の定義も違うため日本の方が差別が強いと感じられる方もいます。とはいえ、誰もが抑圧され不自由の中で生きていることに変わりはありません。

その一方で見えづらい障碍を持つ人は、心理的な重圧にさらされたり人格を誤解されてしまうことも多いようです。周りから大変さを理解してもらえない苦しみが常にあるそうで、医師から障碍者だと診断されることで安堵された方もいます。実際、アメリカの大学にもディスクレシア、統合失調障碍者などの生徒が在籍していましたが、本人たちから言われないと全く分かりませんでした。あるいは慢性的な体の痛みや難病、トラウマを抱えている方もいます。

それぞれの生きづらさは比較できるものではないし、まして他人に理解してもらうことや完全に分かり合えることは不可能です。結局、障碍すらもグラデーション状に広がっており、社会が「障碍者」という立場を作り出してきたのでしょう。

どうあれ、生まれ落ちた状況で自己と向き合って最善を尽くすしかありません。私は幼き頃からコミュニケーションの課題と社会のシステムに疑問を感じていたからこそ、今の表現に取り組むことが宿命だと考えています。

アメリカは競争社会のため成果主義であり、常に身体と頭をフル活用していかないと続かない世界です。学歴や実績だけではなく、人脈や繋がりも重視されるためコミュニケーション力も要求されます。

衣食住も全く違うためどうしても身体に負担がかかります。しかし、もうひと頑張りしなければいけない時なのかもしれません。この機会に与えられた展示ではこの境界線をどう乗り越えることができるのか、また生き生きした表現の可能性を探求していくつもりです。

*日本では「世界的」という言葉がよく使われますが、このブログでは欧米のアートワールドのことを指しています。