アメリカでの生活とアートについて

トラウマ 痛み

今日は「トラウマや痛み」を取り上げた特別講義がありました。教授から事前に「24時間の情事」という映画と、トラウマ学の本を読むよう指示されました。この本は、フロイトによる分析もあり、英語で読むには難解でした。

また各生徒ごとに「トラウマや痛み」について表現した1980年代以降のアートを取り上げる必要がありました。

例えばダヤニータ・シンを取り上げていた人もいて、日本で展示していたことがあるので、ご存知の方もいるかもしれません。

https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2778.html

「24時間の情事」という映画では、広島の原発のトラウマと痛み、戦争の記憶について男女が淡々と会話を繰り広げるだけです。

この映画についてK君に話したところ、とても素晴らしいレスポンスをしてくれました。

「当事者にとって、戦争や差別などの痛みやトラウマを忘れられたとしても、起きた出来事をなかったことにすることで困る人達がいる。加害者と被害者のどちらの視点も正しい。喉に鋭い骨が刺さりつつ、痛みながらもやがて突き刺さった骨も体の一部になるという解決しかないのではないか。つまり、忘れられない痛みを持って前に進んでいきながら、痛みが和らぐまで時間に委ねるしかない。」

私はこの言葉を聞いてハッとしました。

確かにアメリカでは、アフリカ系アメリカ人のアーティストも美大の生徒たちも、祖先が奴隷にされたことを忘れまいとするかのように表現しています。そして観客たちもそうした痛みの表現を彼らに求めながらも、同時に否定しているようなところが見られている。いわばアメリカ合衆国の浄化としての機能を果たしているかのようです。

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私のクラスメートに、アシュケナージ系ユダヤ人としての偏見、迫害の歴史を映像で表現している人もいます。

もちろん、アメリカには聴覚障碍者の痛みを表現する人もいますが、アートの主流に加わっていくにはまだまだ時間がかかるように見られます。おそらくK君が言ってくれたように、身体の一部になる必要があり、同時に大衆が受け入れる土壌ができる必要があるのかもしれません。